鈴鹿8耐


 ”真夏の祭典”鈴鹿8時間耐久レース・・・バイク乗りであればレースに全く興味ない人でも一度はその名前を聞いた事があるはず。レースに興味のある人であれば一度は行ってみたいと思っているはず。かくいう私自身もバイクに乗り始めてからその名に辿り着くまでにそう時間は掛からなかった。8耐が行なわれる場所は三重県鈴鹿市の鈴鹿サーキット。そして私が住んでいる場所は東京。その距離にして400km強は結構遠くに感じていた。それ故、普段の仕事を抱えている身としてはなかなかそう簡単に鈴鹿の地を訪ね行く決心がなかなかつかなかったのが正直なところ。「あぁ、今年も”夏”が通り過ぎていってしまったな...」と何回思った事か…。そしてその度に「来年こそは!」と心に固く誓ったのであった。

 そもそも何故に「8耐」なのか?自分にとって「8耐」とは何なのか?正直なところ自分でもなんだかよくわからない。強いて言うならば、比較的ライダー本位であるスプリントレースと比べて、チーム員全てにスポットライトが当りその総合力が問われるという「みんなでがんばろー!」的なところ。そしてワークス主体だけでなくプライベートチームの参加も多数あり、目標が順位だけではないひたすら完走を目指し、転倒によりマシンも身体もボロボロに傷つきながらも8時間先のチェッカーフラッグ目指して頑張ろうとしているところ。もしかしたらそんな”スポ根”的なところに惹かれているのかもしれない。

 バイクに乗り始め、少しづつバイクに関する事に興味を持ち始めた私。その頃周りが「8耐、8耐!」と騒ぎ立てていたのだが自分では何の事やら?という感じであった。その後いろいろなメディアを通じてその実体を把握してくるにつれ次第に興味を持ち始め、ハマってしまったといったところである。単純に流行に流されちゃったのね。

 時は、'90年、夏。念願の8耐に行くべく暴挙に出た。7月の最終日曜日が決勝の日。社会人の悲しい性とでも言うべきか、その当時とてつもなく仕事が忙しい時期でとても休みなんかもらえる状況ではなかったのだが、それでも積年の思いを果たす事に執念を燃やし私はある計画を立てた。

 その計画とは。。。土曜日の夕方、仕事が終わるのがPM5時位、PM9時位には東京の地を出発しそして夜通し走り、翌朝つまり決勝当日にサーキット入りし決勝レースを堪能し、そしてその夜東京に向かってひた走り月曜日の朝にはその足でご出勤!・・・しかも乗って疲れる走って暑い、法定速度を出すと車がバラバラになるのではないか?と思ってしまう程のポンコツ(1Boxカー)で…。おまけにエアコンなしというオマケまで付いている。若気の至りというか無茶無鉄砲というか、やりたい事はなんとしてでもやり遂げよう!という気合と根性はそれはそれは素晴らしいものがあったみたいだ。ちなみにそれは、こと遊びについてでのみ発動される様だが…。そしてそんな無謀な計画に同行してくれた奇特な人は唯一当時の彼女だけだった。あぁ、お可哀想に・・・

 さて、決行日当日。予定通り仕事を終えた二人は合流し、とっとと東名高速に乗り、一路西へ西へと突き進む。いよいよ念願叶って、生の8耐を肌で感じる事ができる!というまさに興奮の坩堝(るつぼ)と化していた。疲れた身体もポンコツ車もそんなもん屁のカッパ!という最強無敵な状態であった。。。のだが。。。ところが。。。どっこい。。。法定速度以下でトコトコ走っていると、いつまでたっても距離表示の数字が減っていかない。とりあえず目指すは”名古屋”。走っても走っても3桁から全く減っていないような錯覚に陥る。
 その当時まだ高速道が繋がっていない区間があり、ストレートに鈴鹿まで行けなかった。東京からのアクセスは東名から名神に入り”一ノ宮”で下りて一般道をしばらく走ってから東名阪道にアクセスしたように覚えている。先の段取りはまだまだたくさんあるのに今だ東名走破もできていない。徐々に焦りの色が表われてくる。このまま永遠に走りつづけているような・・・。
 休憩の為に入るSA(サービスエリア)では、8耐にバイクで向かっているバイク乗りの姿をチラホラ見掛ける。全く見知らぬ人なのに同じ目的地へ同じ目的の為に頑張って走り続けている...そこに妙な連帯感が勝手に沸いてきて、心の中で「がんばれー!」と声を掛けた。なんて、人の事を心配する前に自分の事を!だ。その後、なんとか無事にそのメニューを消化しつつ、見事東名阪道の鈴鹿ICに辿り着いた。恐らく時間は明け方の4時頃。一般道を走り[鈴鹿サーキット⇒]の表示通りに進んでいく。
 鈴鹿川を渡ろうとしたところで思わず絶句した。その河川敷を見るとそこにはかなりの台数の車で既に溢れ返っていた。看板にはこの先市街に入っていってもどの駐車場も既に満車状態との事である。まだまだサーキット場までかなりの距離があるはずではないか?!それなのに既にこんなところまで、言ってみれば人で溢れ返っているという事なのか?!ということはサーキット自体は一体どうなっているのか?!頭の中は「?!」で渦巻いていた。私らは誘導されるがままにその河川敷の臨時駐車場内へと入って行った。時間はAM5時を回っていたと思う。
 さてしばし車中で仮眠でもとるか...などと思っている時、ふと外を見ると人がゾロゾロ一定方向へと民族大移動の如く動いていく。何事?もうサーキットを目指すのか?!何故だか遅れてはならんという強迫観念のようなものが働いたのであろう、我々もその波に呑み込まれ流れて行ったのは言うまでもない。その移動していった先には臨時バス乗り場があった。ここからそのバスに乗り込みサーキット場へと向かうのであった。朝のラッシュよろしく、車内はぎゅうぎゅう詰めとなり、車窓からは鈴鹿市街の様子が目に飛び込んでくる。
 街は朝靄煙る早朝の静けさを呈していたが、某有名ショップなどが見えたりすると否応なしにボルテージは高まっていった。まるでその街全体に何かとてつもないエネルギーが充満していて今まさにそれが一気に放電されようとしている...そんな一触即発な感じに思われるのであった。きっと誰もがこんな状況下に置かれてしまっては、いくら不眠で夜通し走ってきて疲れきっているであろう身体もそんな疲労感などは一切吹き飛んでしまう、否、吹き飛ばされてしまう。恐らくこれからレースのチェッカーフラッグが振られるまでの14,5時間の間はいわゆる切れかかった電球が最後に明るく光放つが如く。。。

 さてようやくサーキット場に到着する。そしてまず驚く。見渡す限り、人、人、人...。いや本当に凄かったのである。サーキット周辺の一般道では「バイク渋滞」も起きていたように記憶している。
 普段全くレースとは関係ない畑違いの企業がスポンサーとしてわんさか参入していた。鈴鹿8耐もまさにバブル景気に沸いていた頃であった。今思うとその頃がまさに鈴鹿8耐の”絶頂期”であった。

 そろそろお天道様が上へ上へと上っていくに連れて急激に日差しが強くなり気温もぐんぐん上昇していった。セミの声がけたたましい。それがますます”暑さ”を助長する。我々はそんな中ついにサーキットランド内へと足を踏み入れていった。そこはまるでお祭りの縁日のよう。各ショップの色とりどりなグッズが所狭しと陳列されている。かなり触手が動いていたがとにかく今はコースの方へ急ぐことにしよう。とりあえず事前に入場券だけを手配しそれを握り締め8耐に臨んだ私らは人の流れに乗りつつその観戦ポイントを吟味していった。
 グランドスタンド裏から1コーナー、2コーナーの方へと行くのに、今だったらかなりスタスタと歩いていける状況だと思うのだが、その時のそれはまるで”牛歩戦術”。人混み渋滞であった。かなりの時間を要した覚えがある。
 そこらへんまで歩いてくると既に汗だくになっている。喉もカラカラ。まるで亡霊の行列のような様相を呈していたであろう。
 最終的な我々の観戦ポイントをS字〜逆バンクの間の丘の上に定めた。ここなら東コースの大部分を網羅できそうだ。地面に敷物を敷いてやれやれと落ち着く。そこで初めて”鈴鹿サーキット”なるものの全貌をまじまじと眺める。TVでは見た事あるが実際のそれはかなり”でかい!”。私がいるところからまず目に飛び込んでくるのが通称”ダンロップコーナー”のお山。マシンが本当にあんな山を駆け上がって行くのか?!というくらいの高低差に感じられるし、実際もかなりの急勾配である。
 そんな光景をボンヤリと見やっているうちにホッとしたのであろう、そして何よりも前夜からの疲労にボチボチ眠くなってきた。スタートはAM11時30分。ますます高くなっていく太陽からの照りつける日差しはまさに「ジリジリ」という擬音が聞こえてきそうな気すらした。
 いつの間にやら寝入っていた様だ。グランドスタンド周辺から聞こえてくるセレモニーの喧騒に目を覚ます。起き上がると体中から汗がボタボタと滴り落ちていった。自分でもこの炎天下の中、よく寝られたものだと感心するくらいであった。

 いよいよ、いよいよ。。。
 何やら忙しく行事をこなしている様子。誰かのスピーチやら花火やら、式次第に乗っ取って…。そしてスタートももう間近だ。グランドスタンド前のグリッド上には色とりどりのパラソルの花が咲き乱れている。人が忙しくうごめいている。そんな中、次々と選手紹介がなされていく。観客はその一挙手一投足に歓声を上げている。
 その時の選手の顔ぶれはなんといっても目玉中の目玉として「平・E ローソン」組VS「W ガードナー・M ドゥーハン」組のYAMAHA・HONDAの各エース同士の闘いであったろう。E・ローソンは前年度のWGPチャンピオン。しかしそのシーズン第一戦目の同じく鈴鹿で不運にもM・ドゥーハンの転倒に巻き込まれ怪我を負ってしまい早々にチャンピオンシップ戦線より離脱せざるを得ない状況に置かれていた。今回の8耐は言わばその鬱憤晴らしの場と言っても過言ではないであろう。それ以外では、いぶし銀の職人的な走りを見せる「宮崎・(故)大島」組。売り出し中の岩橋選手は日本人としては最速の予選タイムを叩き出していた。あとは芸能人関係のチームなどもエントリーリストにその名を連ねていた。まさに今や「8耐絶好調!」という感じであった。私らがいる場所からサーキット中を見渡す限り、全ての場所に人が貼り付いていた、そう言っても過言ではあるまい。

 さぁ間もなくスタートだ。ウォーミングアップ・ランが始まり、目の前のコース上を轟音と共に憧れの8耐を闘う色とりどりの戦士達がゆっくりと通り過ぎていく。それぞれの想いを己とマシンに託し8時間後のゴールを目指そうとしている様に決意と自信が漲(みなぎ)っていた。
 ホームストレート上に舞い戻ってきたマシンはその爆音を止め、ルマン式スタートに備えその所定位置にその身を置いた。
 サーキット上にはしばしの沈黙が訪れた。クリスマスツリーはそのカウントダウンを始めている。静から動。今までこの地域一帯が蓄えていた全エネルギーが一気にスパークするその瞬間を迎えようとしていた。その様子をビデオに収めたいという思いからしっかりとビデオカメラを構える。場内実況がそのボルテージを言葉に表現して辺り構わず撒き散らしている。思わず私自身のカメラを構える手が震えている。それは目標が定まらないほどに・・・。
 「10・9・8・」ついに切って落とされるその火蓋。
 「3・2・1・Go!」スパークした。
 轟音、爆音、あらゆる形容を引っ下げて津波が押し寄せてきた。それと同時にその轟音に負けないくらいの歓声の渦が唸りを上げて自分の頭上を通りすぎていった。この興奮は一体何なのだ。言葉では言い表せない感情に支配されつつ目の前を通り過ぎていく”エネルギー”を見守っている。ダンロップの山を駆け上がるバイクが一台早くも砂煙を上げてコースアウトしていった。目の前のマシン群が東コースから西コースへとその舞台を移している間、束の間の静寂が目の前にはあった。しかし落ち着いている場合ではない。既に視線は最終コーナーを駆け下りてくる場所に期待を込めて注視している。そして再び”エネルギー”は舞い戻ってきた。さてそれと同時に私ら観客を含めた8時間の長きにわたる闘いもまた始まったばかりであった。

 大体小1時間する頃に1回目のライダー交代がある。その頃になるとレース自体も徐々にその落ち着きを取り戻しつつある。そうなると今度は私らが動き始める番である。何せ初めての鈴鹿サーキットである。いろいろな場所で観たくなるもの。名物の場所がそれぞれある。自分の目の前に広がっているのが「1〜2コーナー」「逆バンク」「ダンロップコーナー」そのまま右回りで周ることにしよう。開けたコース上とは裏腹に少し裏に入るとまるでそこはハイキングコースよろしくの山道であった。ここを行くとどこへ出るの?この...トンネルを抜けると雪国…な筈もなく、立て看板標識を頼りに彷徨い歩く事になる。空には相変わらず灼熱の太陽の容赦のない仕打ちに身も心も焦げ付きそう。行く先々にある売店でひたすらビールを喉に流しこむ。それはまさに一時の清涼にとどまる。酔う暇すらなく汗腺直行と相成るわけである。観ているだけの我々ですらこの様な体たらくなのであるから、コース上で死闘を繰り広げている「戦士」達は文字通りそこは「生死を掛けている」場所なのであろう事は想像に易い。尊敬に値する。

 何を取っても全てが新しい物尽くめの私らは見るもの全てが新鮮で、ひたすらそれらを見て周っていた。とはいえコース裏で行なわれているイベント事にまで目を向ける余裕はまだなかった。本来であれば華やかなキャンギャルのおケツを追い掛けているのであろうが、余程コース上の死闘に首ったけだったのであろう視線の先は常にコース上に向けられていた。

 時は刻々と過ぎていき、ようやく人でなしの太陽も真上の空から徐々に西の方へと傾きつつあった。それでも相変わらずコース上では闘いが行なわれている。まだまだ先は長いと思っていた8時間は思いの他早く過ぎていっている。コース長5km強、その周りの観客席だから更に長い距離になる。そこを結局3〜4周程したらしい。仕舞には足は棒の様になっていた。そろそろ着陸場所を定める。彼女もよく付き合って歩いたものだ。ちなみに彼女はバイクには乗らない。興味もない。なのに私の影響からかレースには興味があったようだ。だから付いてきた。そうでなければこんな過酷なデートは冗談ではないあろう。ご苦労な事である。

 さて、すっかり西に日が傾いた。東の空より夜の帳が下りようとしていた。暮れ始めると一気に翳っていく。まだコース内には熱気が渦巻いてはいるが、真上からの熱射がない分かなり涼やかに感じられるようになった。  PM6:45、ライトオンのサインが出た。各マシンから赤、青、黄などの色とりどりのヘッドライトの灯りが薄暗くなりつつあるコース上を煌(きら)びやかに照らし始めた。それと同時にコース上の水銀灯にも灯が入った。昼間の死闘が観ているこちらにとっては嘘の様に幻想的なものに見えてくる。
 やはり昼間の過酷な暑さからかコース上のマシンはスタート時から比べてかなり少なくなってきている。むしろあの暑さの事を考えると今ここに残れている事だけでも奇跡に近いとさえ思える。ここまできたらみんな無事にチェッカーフラッグを受けさせてあげたい。ゴールはすぐそこ!

 そろそろ死闘=宴は終焉を迎えていた。ここではレース内容の事は一切触れていなかったが、今現在トップを快調にひた走っているのはYAMAHAのエース「平・E ローソン」組である。ここまできたら…という気もしないでもないが、ご存知の方も多数いらっしゃる事と思うが、この平選手は今までにいくつもの苦渋を舐めてきた過去がある。チェッカーを受けるまでは一切気が抜けない。周りの観客もそれを知っている。
 そして再びグランドスタンド前のクリスマスツリーではカウントダウンが始まっていた。辺りはすっかり夕闇に覆われていた。各マシンはヘッドライトの灯りを頼りに目前に迫ったゴールの瞬間にひたすら今を耐えていた。みんな祈る様にコース上を見つめていた。

 「10、9、8・・・」その時は目前。「・・・3、2、1、0」場内再び歓声が渦巻いていく。目の前をマーシャルカーに先導された「戦士」達がその武器を捨て今までの宿敵とお互いを称え合い、その背中は安堵感で一杯になっていた。
「終わった・・・」
 あたりは真っ暗であるが、私の頭の中は真っ白であった。「燃え尽きた…真っ白に…」という台詞を実感した瞬間でもあった。しばらくはその場から腰を上げる事ができずに放心状態に陥っていた。グランドスタンド前ではまさに宴は最高潮!YAMAHAのエース、否、日本のエースである平選手が悲願の優勝遂げたのだから。
 表彰式が行なわれる。一体あの表彰台の上に上がっている人達は今どのような気持ちなんだろう?「うれしい…」否、そんなもんではない、言葉にはきっと言い表せないだろうな、想像難しとはまさにこの事だ。

 いきなりダンロップの山の向うから花火が上がった。みんないろんな思いを胸に空を見上げている。今の自分らは純粋に「終わった…」。これしか思い浮かばない。それと同時にライダーと共にこの8時間を闘い抜いた者だけが味わう事のできるこの爽快感。この花火は最高級ビールの味がした。シュワシュワ〜っと、色とりどりの木目の細かい泡が弾けては消えていく。ほろ苦く、そしてほんの少し効いているこの塩味は戦士達の涙なのかもしれない・・・。

 みんな本コース上に降り立っていく。まだ少し熱を帯びているこのアスファルトの上でつい今しがたまで繰り広げられていた闘いの事など、なんだか想像できなかった。今となっては平和そのものだから。

 コースが解放され、ここぞとばかりに私らは今しがたまでの死闘を頭の中にトレースしながらコースを歩いていく。バイクでなら雑作もないであろうダンロップコーナーの勾配はかなり急であった。コーナーの至るところに刻まれている傷跡にその時の悪夢が蘇る様だ。これを不覚にも刻んでしまったライダーとマシンは果たして無事だっただろうか、そんな事を思いながらも歩く歩く歩く。何か歩かなければならないような気がして歩いた。きっとこの8耐そのものを身体に刻み込んでおきたいという衝動に駆られたのかもしれない。最終コーナーを下りてきて、これで自分らのウィニングランが終わった。。。ツワモノどもの夢の後

 さぁ終わった。レースが終わり花火も終わり、自分らのウィニングランも終わり全てが終わった。そして始まった。さぁ始まった。今度は自分らの闘いが・・・。さて帰ろうか。抜け殻状態でサーキットを離れていく。沿道では最後の勝負とばかりに各ショップの売り子たちがあらん限りの声を張り上げている。この人達の8耐はまだ終わってないんだろうな。とはいうものの彼らに構っている場合ではない。こちらも腑抜け状態のままその傍らを通り過ぎていく。場外に出た。目の前のバス停はまるで芋を洗うが如き光景が広がっていて人に埋め尽されていた。自分らもそんな芋の一員として行列に加わった。力尽きていた自分らに課せられた最後の仕打ちとばかりにじっと耐え忍んでいた。が、これが”最後の”だなんて甘い考えだということにまだ気付いていない私ら。まだまだ試練は続くのであった。

 どうにかこうにか河川敷の私らの車の元へと辿り着いたのは恐らくPM10時を廻っていた頃だったと思う。いざ、東京へ!そんな思いとは裏腹に疲労は極限に達していた様だ。やれやれとエンジンを掛けた瞬間、一気に睡魔が総攻撃を仕掛けてきた。あまりの攻勢にエンジン掛けたはいいのだがそこから走り出す事が不可能になってしまった。そこでほんの1、2時間の仮眠を取る事にした。次の日は仕事が待っている。是が非でも戻らなくてはならなかった。
 なんとかAM0時少し廻った頃に車を出せた。来る時も遠いと感じたその道程は、更なる距離感をもたらして否応なく私を攻めたてる。高速に乗ってからというもの、その睡魔との闘いは壮絶極まるものであり、戦闘に破れてはSA(サービスエリア)というSAに片っ端から逃げ込み、しばしの睡眠を貪るのであった。そうこうしているうちに夜も明け、昨日と同じような灼熱地獄ではあったのだが睡魔の刃に掛かってはそんなものはまるで眼中にないが如く、エアコンの効かない車中でも窓全開で寝られてしまうのが恐ろしいところ。往路では夜間という事もありエアコンなくてもとりあえずなんとかなったのだが復路はバリバリの日差しを一身に受けて。昨日のライダーの心情がよくわかる...なんて事を思ったかどうかは定かではない。とにかくその時の自分は必死であった事には間違いない。
 「もういいや・・・」
 私の当初の無謀な計画は実行に移したまではよかったのだが、詰めの部分で崩壊してしまったようだ。「とても仕事には間に合わない。」そう思った瞬間、再びSAに入り、睡魔軍団には白旗を揚げて思う存分寝てしまったのは言うまでもない。「このまま無理して居眠り運転でもしたら危ないし…」などと都合よく考えたのであった。  かくして生まれて初めての「鈴鹿8耐」は前評判通り”過酷”であった。それは即ち観ている側も”8耐”であるということを身をもって体験したのであった。可哀想なのは彼女の方で、そんな自分の欲望に付きあわせてしまい、きっとこれで懲りたであろう。私自身もそうだった。そしてその時は思った。「2度と行くもんかー!」と。。。

 その「2度と行くもんかー!」の90年から91、92と性懲りもなく。93年も相変わらず。この時「彼女」が「カミさん」になり、この調子で94年までも訪れている。95年の8耐決勝はカミさん病院のベッドにて…。阻止されて頭来たので命名「鈴輝(すずか)」(♂)。さぁ翌96年は丁度1歳になった「すずか」くんを鈴鹿の地へ還してあげよう…。可哀想に1歳の身でありながら”あの”過酷さを体験する羽目になるとは…。そしてその翌97年もまたまた引き連れて行く。こうなると家族行事となってくる。この97年は台風直撃でかなり荒れ模様になった覚えがある。何せその前日に行なわれた「4耐」が「3耐」になったくらいだから。「8耐」はそのまま行なわれた。

 ところで8耐のレースもさることながら、それ以外の時間の過ごし方も含めて全てを満喫していた。
 先に述べていた通り、初めて訪れた90年はそれこそ日帰りモードであったが、翌年は少々賢くなったのであろう土曜日から月曜日までしっかり休みを取って臨んだのであった。
 サーキットの近くにHONDAさんの鈴鹿工場があって、その当時、そこの駐車場を8耐期間中無料解放していたのでそこに駐車させてもらっていた。みんな車中泊のオートキャンプのノリで楽しんでいたようだ。現地での足代わりに車のルーフに自転車を乗せていく。いろいろとその地を探索するのも楽しみの一つだと思う。夕方涼しくなってから近くのお好み焼きの店でキンキンに冷えた生ビールをグビーッと煽るとまさにこの世は天国に思えてくる。憧れの8耐の地で飲むビールに、まさにこの瞬間の為にオレは生きているんだー!という気にさえ思えてくる。少し大袈裟だったかな・・・。
 ちょっとしたハプニングもあった。。。何回目だったか、社用車のライトバンで行った時があった。駐車場内ではシートを倒し荷室をフラットにしてシートを敷き、そこに足を伸ばして寝ていた。やはり真夏という事で蚊の進入は防ぎたいもの。蚊取り線香をキャンプ用のケースに入れて、車内の足元へ置いておいた。気付けばいいものを、窓を閉めて寝てしまった。さぁ、もうおわかりであろう・・・。朝、何やら妙な臭いと息苦しさにパッと目が覚めた。ところが何も見えない・・・真っ白で・・・。蚊取り線香の煙に咽(むせ)びながら車外へ脱出!端から見ていたら一体どのような光景に写ったであろう。車外へ真っ白な煙と共に転がり出てくる人間。危うく蚊取り線香に蚊ではなく自分らが退治されるところだった。今だにその時の事は笑い話になっている。
 そんな笑えるハプニングも多々あったが、概ね快適にそこの駐車場を使わせて頂いた。そんな太っ腹なHONDAさんには大変感謝している。さすが世界のHONDAさんだ。とはいうものの、何年目からかその駐車場を解放しなくなってしまったのだ。利用させてもらっている側の使い方が悪かったのかな?そんな気がする。WCやらなにやら、とにかくゴミで散らかしっぱなし。やはりそこは好意で使わせてもらっているのだから謙虚にならなくてはいけないとつくづく思った。そして、とても残念だ。
   ということで利用できる間は、毎年そこの駐車場を利用させてもらっていた。しかしさすがにレースが終了する日曜日の夕方には追い出されてしまうのでその夜泊まる宿の確保は勿論事前に済ませておくのは言うまでもない。
 ちなみにその宿の確保は暑い暑い真夏の時期の8耐とは裏腹に、真冬の2月くらいには動き出す。それでもなかなか空きを見つけるのは至難の技だったりする。しかしそこは意地と忍耐でいろんな資料片手に電話を掛け捲(まく)るのであった。  

 さて、そんなライフワークともなっている8耐だが、97年を最後にしばらく遠ざかっていた。諸々の事情とパワーの衰え(?)いやいやいつの時でもあの時の思いは自らの胸の内で赤々と燃え続けていると信じていた。
 しかし、いつの時でも夏になると落ち着かなくなり疼(うず)いてくる。そんな20世紀最後の年である去年、再び鈴鹿の地を訪れたのであった。但し、今までと違うのは残念ながら私単身での8耐であった。0泊2日のツアーで鈴鹿に乗り込んで行ったのである。しかし8耐は8耐。またあの時と同じ”熱さ”で私を迎えてくれた事をとても嬉しく思った。コース上を走っているのはあの時の顔ぶれとは大分異なっているが、その熱き思いは時代を越えて各々の心の中に受け継がれていると思っている。鈴鹿を訪れる全ての者にとっての8耐である事。

 そして今年もまた、あの熱い一日がやってくる。
 今年は一体どのような夢を見せてくれるのであろうか。どちらにしても灼熱の太陽よ、鈴鹿に集う全てのものを再び焼け焦がしてほしい。。。
 目をつぶると今でもあの日の残像が頭の中に鮮明に蘇ってくる。西に傾いた太陽に向かいダンロップの坂を駆け上がっていく勇者達の背中・・・。その後姿は無我夢中で味わった90年の8耐の覇者、平選手かもしれない。
 その時の熱かった思いを今だに引き摺っているのであろう。
 本当、懲りないヤツだ・・・(失笑)

 ちなみに今年は残念だが鈴鹿へは行かない。もし行かれる人がいらしたら是非思う存分8耐を味わってきてほしいものだ。
 お気を付けて。。。Good Luck!

2001,7,13
cow-boy


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