パパさんライダーの 憂鬱2
〜02年の反省文


 とある日、我が家の電話が鳴りました。バイク仲間からです。
 「お久しぶりです」に始まり本題に入っていきました。
 「聞いてくれます?あの、オレ、バイク売っちゃいました。」
 「・・・・・」私はしばし何と言ったらいいかわからず黙ってしまいました。というのも、あんなに可愛がっていた愛車を・・・そりゃまたどして???...とりあえず尋ねてみました。

 彼も私同様「パパさんライダー」でした。カミさんに息子が一人。3歳くらいだったけな?
 これまた私同様家庭を守りつつもやはりバイク道楽に浸っている日々を送っていたのでした。たま〜に我が家へふらりと遊びに来たりしてました。何故だか皮ツナギびしっと着込んでの事もありましたし。家の外でお気に入りのバイクを前に延々とダベっているのです。そう、延々と・・・。
 一度はそんなお気に入りのバイクを盗難で失ったものの、すぐさま同型のバイクをゲットしてしまうあたり、何と申しましょうやら・・・開いた口が塞がらないというか・・・奥さんの理解ある大きな心には頭が下がる思いです。

 そのバイクを「売ってしまった」なんてただ事ではない?!

 そこにはいわゆる「パパさんライダー」の中の『パパさん』であることに何よりも重点を置き、その立場で考えた結果であったわけです。詳しい事はそれぞれ家庭内での諸事情なので公言は控えさせて頂きます。が、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたバイクを家族への迷惑の一因となる可能性が薄々でも見えたその時、彼の『パパさん』は”発動”され、ただちにその不安要因を抹消し、とにかく家族を守ることを第一に考え行動に出た彼。
 可愛がっていたバイクが手元を離れてしまった寂しさやら悲しみなどを淡々と語りつづける彼に、慰めにすらならないながらも気休めの言葉を投げ掛けるしか成す術のない私。「五体満足ならば、またきっといつかバイクに乗れる日は必ず来る!」...云々。彼にそんな言葉を掛けながら、実は私の心はイタタタタだったのでした。
 なんともうしましょうか、自戒の念に苛まれていたとでも申しましょうか。

 私の今までのバイク人生は、とにかく家族には何かと迷惑を掛けてきたと思っています。特にカミさんには。
 休みの度に走りに出掛け、挙句はコケて帰ってきたり.....てへへ、骨折っちゃったり。
 そこで前述の彼の例と照らし合わせていくと、私も本当ならバイクを売り払い、ホトボリ冷めるまでパパさん業に徹するところでしょうが・・・どうにもこうにも往生際が悪いというか。挙句の果てはバイクの修理代までせびる始末。もうね、バカかと、アホかと。カミさんは言う「しぶといよね〜。今度こそ諦めるかと思うんだけど、その度に蘇るよね〜」...感心してるんだか皮肉っているんだか定かではありませんが、お〜やまぁ〜誉められちったぁ〜…と都合良く解釈し、そして再び我が道を進むのでした。

 。。。で、そんな彼の潔さというか、私より数段年下だというのになんと大人びたというか父親らしいというか.....それで私の耳はイタタタタだったのでした。もし私がそんな状況下にあり、そしてその必要性に迫られたとき、果たして私にはそんな大英断を下す勇気があるのだろうか・・・。自信は・・・ないっすね〜(あっけらかん)

 今年02年は私のバイク人生のいわゆるターニングポイントとなるような様々な出来事やら要因が盛り沢山の年になったようです。いやぁ〜この間いろいろと考えさせられました。バイクと絡んでいて、そりゃもちろん楽しいことはたくさんでした。でもその楽しさの裏側というものを痛いほど見せ付けられたような気がします。心身ともにイタタタタ...なこともありありでした。

 前年01年の6月頃にコケ、身体は無事だったもののバイクを壊し、んで再び修理代をせびり、コツコツ自分で直しつつまたしても復活を遂げました。なのになのに、年が明けて今年02年はまたしても春先、経費節約のために車検もユーザーで通しウキウキ気分でその数日後のクラブツーリングに久々の参加を果たしたのでした。かなり久し振りだったクラブの面々とのご対面にこれまたウキウキ気分だったことでしょう。・・・・・で、す、が・・・・・
 よりによってこんなときに何故に自分が?!...そう、またしても事故っちゃったんです。しかも救急車のお世話になる始末。
 なんと申しましょうか、頭の中を「どして?」「なんで?」「ど〜なってるの?!」がぐるぐると渦巻いていました。どうやったらこんなシチュエーションで事故れる?!って...感心してしまうほどです(爆)。そんなわけで、クラブの方々にも多大なご迷惑をお掛けしてしまい、いつまで経っても未熟な己に文字通り穴があったら入りたい気分でした。
 その時は搬送先病院での診断通り単なる打身だと信じていながらもどんどん腫れ上がる左手をかばいつつ、それでもなんとか自走で家まで辿り着くことに成功しました。自宅前で停車したものの、全身の痛みでしばらくそのままの形で降りる事もままならずもがいていました。が、家に入る際は平静を装い、いつも通りに「ただいま〜」と入っていきました。ボロボロの左手を隠すようにして、台所でご飯の支度をしているカミさんの脇を擦り抜けそそくさと奥へと行きました。いや、その、、、やはり告白には心の準備が必要なもので(笑)
 イタタタタな姿で着替えをしていると長男殿がやってきて「あれ?オトーサン・・・またやっちゃったの?」...イタタタタ。すっかり長男殿にとっては”また”化しているようです。
 「バイク、もう乗らないでほしいかい?」と私が長男殿に聞くと彼は「ううん。オトーサンが乗りたいのなら乗れば良いよ。」と答えました。私はなんとも複雑な思いで彼の言葉を聞いていました。嬉しいような、なんとも言えない複雑さが・・・

 さて、対カミさん用の防御シールドを心に張り巡らせながら、いよいよコクりました(笑)。冷ややかでありながらギロリと力のある眼差しで私の身体を見回しながら「まぁ、自分の力で帰って来れたんだから良しとしましょうか」と。「はい、良しとしましょう♪」...とりあえず(^。^;)ホッ。但し私の腫れ上がった左手を見た途端に目ん玉ひん剥いて驚いていました。そりゃそうです。素手に単なる湿布を貼り、ネットでそれらを押さえているだけのその左手はただそれだけなのにまるでギブスぐるぐる巻きでもしているのではないか?と思えるほどにパンパンに腫れ上がっていたのでした。これで本当に骨が折れてないのか?!ってぇくらいに凄かったです。
 次の日になると、いやもう、その腫れ上がった左手以外にもそれこそ身体中に痛みが走り起き上がる事さえままならないほどでした。背中やら腰やらありとあらゆるところ。結局その日は一日布団の中で唸っていました。恐らくこのままではその次の日も危ういでしょう・・・。
 次の日は。。。長男殿、幼稚園卒園式だったのです。
 こここれは父親として絶対に外してはならないものです。絶対に列席しなくてはならないのです。こんな自分の自爆の為に肝心なところを逃してしまっては諦めるに諦めきれないです。
 ・・・でもですね〜んなこと言ったって・・・とにかく立ち上がることさえ苦痛なのです。朝、カミさんと長男殿は先に出掛けました。私はもし行けたら後から行くからと。
 時間は刻一刻と近づいてきます。このままでは本当に間に合わないぞと、気力を振り絞って起き上がり、着替えをし...といってもこれがまた痛くて辛くて、ネクタイだって果たしてどうやって絞めたのやら...なんとも冴えない格好でしたがとりあえず重い足を引き摺るようにして幼稚園へと赴き、卒園式にはどうにかこうにか出席を果たし、長男殿の晴れ姿を拝む事ができました。

 その翌日、やっちまってから3日後のことです。どうにもこうにも左手の腫れが引かず、それどころか胸の肋骨のあたりにピンポイントの痛点を発見したので近所の整形外科病院へ行って診てもらいました。するってぇと・・・
 「左手親指の付け根、ほら、ここんところ...ポッキリ折れてズレちゃってますね。」「肋骨のところ、ここんところの小骨も・・・」タラリ〜鼻からぎゅ〜にゅぅ〜…ってところでしょうか。
 いきなり左手は数人の医者に押さえつけられズレを修正しギブスでぐるぐる巻かれ肩から三角巾で吊り下げられ、肋骨の方はバンドで締め付けられ.....ほ〜ら、立派な怪我人のでき上がり〜♪です。まったくもって(;´д`)トホホです。

 そこになにかの宿運と申しましょうか何らかの力が作用したのではないだろうか?と思えてならない出来事が起こったのは私が事故ってから5日が過ぎた、桜もちらほら舞い散る暖かな春の日差し眩しいそんな日のことでした。今では連絡が途絶えてしまっていた昔のバイク仲間から久し振りの電話が掛かってきました。ツーリングクラブ内で出逢い結ばれ夫婦となった...その奥さんからの電話でした。
 その時の模様をその当時編集発刊したメルマガで私は次のように書いていましたので引っ張り出してみました。


 。。。そして一言二言交わした私は、次にきた彼女の言葉で一瞬にして凍りついたのでした。

 ・・・夕べ、旦那が亡くなりました・・・

 私は頭の中が真っ白になり、あまりに突然のことに何をどう言葉を繋いだらい いのか訳がわからなくなっていました。とにかくその場はお悔やみの言葉を述べ て、今後の段取りが決まったら教えてくれるよう頼むのが精一杯でした。

 亡くなった彼も当然バイク乗り。そしてその死因になったのもバイク。
 その日春分の日、ツーリングでの帰り道。仲間と別れ単身家路を急いでいた途 上での事です。一言で言ってしまえば典型的な「交差点内での右直事故」だそう です。
 彼女の口からはっきりとは聞き取れなかったのですが、大腿骨骨折と何より胸 部強打により心臓の損傷が酷くて「即死」だったそうです・・・。

 式当日、彼を知る仲間は集まりました。久方ぶりに逢う面々。そして久方ぶり に逢う「彼」・・・。しかし「彼」は目を閉じて物言わず、じっと寝ているだけ でした。そう、ただ「寝ているだけ」のようでした。今にも目を開けて元気な声 で「よっ!久しぶり!」なんて言い出しそうでした。いや、むしろそれを願って いました。しかし残念ながら・・・彼の遺骨を見たとき、その願いが如何に虚し かったかを思い知らされたのでした。

 大好きなバイクに乗って逝ってしまったのだから本望・・・なのか?いや、絶 対にそんな事はあるわけがありません。きっといつまでも走っていたかったはず です。どんなに悔しかった事か・・・。悔やんでも悔やみ切れなかったことでし ょう。
 そしてその悔しさ、悲しみは残された者にとってはそれ以上の想像を絶するも のがあるということをこの歳になって初めて知りました。ご両親、そして一人残 された奥さん・・・。悲しみは底無しです。

 私の愛車、こかしてしまった黒い'88年式GSXR750は実は彼から譲り受けたもの でした。まだ彼の愛車だった頃からタンクの上には富岡八幡宮の丸い交通安全シ ールがデカデカと貼られていました。それは彼の奥さんが願いを込めて貼り付け たものでした。私はそれをそのまま譲り受け、先日の事故の時も守ってくれたお 陰で、幸い私は生きています。しかし皮肉なもので、本来守られるべき彼は逝っ てしまいました

 今、私はギブスが巻かれている自身の左手を複雑な思いで見つめながらこれを 書いています。なんにしても、私達の絆であり、愛すべきバイクといつまでも末 永く付き合っていくには、自分自身の為、家族の為、そして自分を知る友人知人 の為にも月並みではありますが「安全第一」を大命題に掲げてこれからも素晴ら しいバイクライフを送っていきましょう。ね、みなさま。

02,3,30付 メルマガbbbより


 この事件はかなり私の心にきましたね。グサッとかなり深く突き刺さりました。自身もやっちまったばかりでのことというのもあるでしょう。それよりもなによりも、今回同様コケて痛い思いやらなにやらさせてくれるけれどそれでも自分の愛すべきバイク。そのバイクで多発する死亡事故に関するニュースを今まで頭では分かっていながらもどこか他人事のように思っていましたが、実際にそれが原因で友人が自らの命を落としたという超現実を目の前に突き付けられてその事実をどうしようもなく狼狽しつつも受け止めなければならないという厳しい局面にしばらくは深く落ち込む日々を過ごしていました。

 私がコケて骨折して...それでも生きて帰って来れて...だから御の字。カミさんは冷たい視線を送りながら罵倒しつつもそれ以上のことは言いませんでした。ところがこの友人(ちなみにカミさんはこのご夫婦と大いに面識ありです)の件を知るや否や途端に表情が変わって.....
 「できればバイク降りてほしい・・・。」
 「どうせ降りろと言っても降りないでしょう。だったらせめて事故っても即死だけは勘弁して。別れの言葉だけは絶対に言わせて・・・」と。

 彼女の言葉も私の心に大きく響きました。
 これ即ち紙一重なり。
 もしかしたら逆の展開もあり得たわけです。私は無事に生還しました。それはたまたま。そう、もしかしたらもしかしたら・・・んなこと言ってるとキリがありませんね。

 「もはやこれまでか・・・」

 正直なところその時本当に自分は考えました。
 自分がいくら気を付けていても不幸は向こうからでもやってくるし、バイクというあまりに外敵から無防備な乗り物は自分の意思に反する事態はいくらでもあり得るわけです。私がバイクで出掛ける度に家族の者にほんのちょっとでも不安やら心配事を与えてしまうというのは家長として全くの本意ではありません。その友人の葬儀で家族の方々に見られたようなとてつもない悲しみというものをヤツらには味わわせたくない・・・そんなことを思いながら、まだ動くことすらままならない折れた左手親指の治療に専念していました。それが言わば良い冷却期間となり、いろいろ様々今後について考えていました。




 で、現在に至る...ってか?!(爆)




 笑っちゃいますよね。
 あれこれ思い悩み、もっともらしいことを言いながら・・・
 で、結局これかよ?!みたいな。
 はい、お蔭様で相変わらずバイク乗りとして現在に至っております。
 ですけどね、ほんのちょこっと以前とは変わったんですよ。それはですね。。。

 「絶対にみんなを悲しませない!」

 と、約束したんです。カミさんと。
 だから、もうコケないんです。事故らないんです。もし仮にそうなってしまったとしても絶対に生還するのですよ。生きて帰ること。そうすれば・・・いつまでもバイク乗りとしても生きていけるのですよね。
 そう、冒頭のパパさんライダーへ投げ掛けた言葉。
 「五体満足であれば、またきっといつかバイクに乗れる日は必ず来る!」のですよ。はい。


 そうそう、ちなみにですね、その彼からあのあと1ヶ月ほどしてから再び電話が掛かってきたんです。どしたんだろう?まだ悲しみのどん底なんだろうか・・・?そしたら何と言って慰めてあげれば良いんだろう・・・そんなことを考えながら電話口に出た私にその彼は開口一番―――――

 「今ですね、NSR探してるんです!こんな程度のヤツってどうですかね〜・・・・・」

 上気した彼の言葉を聞き、おいおい思い悩み塞ぎ込んでからまだ1ヶ月も経っていないというのに・・・。

 「いやぁ〜、もう限界っす!1ヶ月も手元にバイクがないのなんて辛抱たまらんっす!」

 それから延々と彼のバイク選び談義に付き合ってあげました。なんというか彼らしいというか、立ち直りが早すぎるっちゅーか・・・呆気に取られながらもその反面ちょっぴり私も嬉しかったりしました。それに私がもしそんな彼のような決意をしてしまっても、当然今回の彼のような「限界っす!」となるのは目に見えて明らかなることでしょう。もしかしたらうちのカミさんもそこいらへんのことがわかっているからそれ以上のことを言わないのかもしれませんね。だったらそんな彼女の期待に応えられるようこれからはより一層の尽力をしてハンドルを握ろうと決意しました。

 ちなみにその彼は02年中に新しい相棒を見つけて、初日の出はバイクで見に行くぞ―っ!と意気込んでおりました。
 そんな彼も私もパパさんライダー。そして世の多くのパパさんライダーもみなそれぞれにしがらみやら何やらいろいろなものを背負いつつ...否、パパさんだけではありませんでした!そう、バイク大好きなママさんもです!みんなみんな大好きなバイクの為に今日も安全第一!誰をも悲しませることなくいついつまでもこの不肖息子のようなバイクと末永く共に歩んで行けたらHappyですね。自分もそして皆様方もそのようにいられますように。


 と、そんなわけで、とても良い結論が出ましたね。
 そうです。そうなんです。

 来年03年もその次の04年もそのまた次の05年も...魂ある限り、いつまでもどこまでも走り続けていきましょう。はい。いつまでもどこまでも走り続けていきますよ!私は。。。私はね。ただ、バイクがちょっと・・・・・カーチャン!新しいの買うておくれ〜〜〜〜〜(懇願)(却下)(平伏)(無視)(涙)



'02,12,14
written by cow-boy

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